「本人らしさ」を出す(上)
手話通訳は黒子!無標!前にでるな!地を出すな!エイエイオー!
というのはある意味常識というか、手話通訳に求められるの倫理というか、そういうルールがあります。それに逆らう気はございませんし、そうあるべきだと思います(最後のエイエイオー!はともかく)。それは専門的職業として、通訳そのものをしている時ではなく、「手話通訳者」であるときはそういった態度であるべきでしょう。
という大前提があるにも関わらず、いわゆる「お節介通訳者」という方はなかなか減りません。どうしてでしょう?それは個々のケースにもよりますし、対象者からそう求められることがあるかもしれませんし、止むを得ずということもあるでしょうし、その方の元々の性格なのかも知れませんし、「福祉」の分野から抜け出せていないのかも知れません。ずいぶんと言い訳をしましたが、これは問題だと思いますが、これでうまく場が進むことがある(あってしまう)というのも事実でしょう。
それとは別に、手話通訳そのものも、本来であれば「本人」、つまり音声でしゃべっているのを聞き取りするならそのしゃべっている人、手話で話しているのを読み取りするならその人の、「本人らしさ」を無くしてはいけません。いけないって言ったって別の人が通訳する以上どうしても”らしさ”は減ってしまうのですが、別の言語に変える過程で、通訳者が持っているものが入る、というのはできるだけ減らさないといけませんよね。まぁそれは原則論。無くすなんてことは無理です。
かといって、まるで通訳がしゃべっているかのようになっちゃうのは論外ですが、どのようにすればいいか、「本人らしさ」をまずは通訳者が見極めて、その通りになるように振る舞わないといけませんね。これは手話の技術うんぬんの前に、そういう能力も求められているのではないかと。いっくら手話が上手くて、語彙も多くて、文法的にすばらしくて、淀み無く手や口が動いたとしても、あくまで「通訳」ですから、話者本人の雰囲気を伝えられなければ、それは通訳といえるのでしょうか。
(続く)
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