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2018年5月 2日 (水)

手話に関するつぶやき 抜粋まとめ(後編)

まーた手指日本語か!もう!
何でさーその言葉を使っている当事者が嫌だ、そんな呼び方したことないっつってんのに「言語学的に」とかで勝手に「手指日本語」とか名前付けてんの?それ排除だよね。そんなら「パペポ手話」とか勝手にいってもいいわけ?
あぁ、過激になってしまう。いかんいかん。
「誰が私に説明してくれますか?」だったかな。あんな手話表現する人そんなにいないし、それを例にするのは極端(もちろん尊重すべきではある)。そしてそれを(手指日本語)と勝手に定義して載せて説明していると大きな誤解を与える。あれも手話の一つだろうし、比較対象にするのは違うと思う。
手話には(世代、地域、生育環境、教育などで)話者によりバリエーションがあって、どこで区切れるかわからない、そして日本語の影響を多分に受けていることが多いのが現実だと思う。独立性は否定しないが、区別することにはやはり同意できない。個人的な考え。
手話が第一言語だからそれが日本手話っていうのは安易だなぁ。そもそも何が日本手話で、どのくらい純粋な日本手話なのかわからない。純日本手話主義でそういう言語を身につけることは否定しないけど、それが当たり前のように言われると現実そうでもないわよ奥さん、って言いたくなる。
あと繰り返しになるが「聴者」という表現はキライ。自分はそう呼ばれたくない。かといって「健聴者」と言ってほしいわけでもない。

今年度からのみんなの手話、監修しているのは聞こえる人。講師はろう者だが自分たちの意志に沿っていれば聞こえる人でもカリキュラム作ったりするのは構わないってことなのかな。「手話はろう者が教えるべき」と、若干矛盾してるように思うけど。どのくらい手話できる人か知らんねんけどね。
私の言語は「手指日本語」です!って自信を持って主張している当事者がいない(むしろ否定的な意見ばかり)な状況をどう考えるのだろうか。なんで当事者じゃない人が勝手に定義づけているのだろうか。散々それをやられて苦しんできたはずなのに。
「手指日本語」と言いたい人は日本語対応手話(と呼ばれているもの)を使っている人に「あなたの言語は手話言語学的に『手指日本語』と言いまして手話ではありません」って言ってほしい。絶対「はぁ?何で?」ってなる。んでもってちゃんとその人が納得するように説明してほしい。
()でくくろうが何しようがその人にとって不快な表現は使わないってそんなにおかしいこと?
手指日本語と規定している手話言語学が偏り過ぎているのが原因なんだと思いますよ。学術用語と言いながら手話初心者にそうやって広めようとしている。
感情論でも何でも良いんだけど、なして「手指日本語」と定義したいのだろうか。文字通り手や指で表す「日本語」だから?それは日本語の言語学者は認めてるの?日本語対応手話じゃだめなの?という素朴な疑問に答えてくれないのです。
つまりある種の「日本手話」を守りたいだけのために他の種類の手話をダシに…言葉が悪いな、比較対象にしているだけなんじゃないかと。
手話言語学なら幅広い手話の形態、多様性(日本語に大きな影響を受けることやマイノリティゆえの特性)について研究するべきなのに、結局「日本手話がいかに素晴らしい言語なのか」だけになってる気がする。すばらしいのは否定しないから、他の手話についてもちゃんと現場を見て研究してほしい。
で、「日本語対応手話から勉強を始めると手話がうまくなりませんよ」とか「日本手話からやったら対応手話はあとからできますよ」とか言うわけですよ。そうじゃない学習者もたくさんいますし、対応手話を必要としているろう者もたくさんいます。
実際に通っていた学校では対応手話のことバカにしてたしね。今は知らんけど。あぁ、少しムキになってしまいました。反省。
地域に住んでる未就学の高齢ろう者、聞こえる人の社会で揉まれて手話と口話を使い分けながら生活しているろう者、学校に通って日本語を比較的獲得している若いろう者、それぞれをどうやってカテゴリーするのか、納得する説明を聞いてみたいもんだわ。少なくとも「二つあります」ではないと思う。
会わないとわからないならフィールドワークとして会いに行って、この人はこれ、この人はこう、とソースを積み上げて行く、そういうことをするべきなんじゃないの?一部の人ばかりを取り上げてていいの?
自分のことを言えば、手話通訳として目の前の対象者が一番わかりやすい手話ができるよう、努力するのみなんです。そして手話を知らない聞こえる人に、聞こえる立場で理解を広めていく。それくらいしかできないので。ろう者の取り巻きになるつもりはありません。
「言語学」と言えば許されるのだろうか。その言葉を使っている人の背景や思いをくみ取って整理し、論理的に分析、説明する、それが学問だと思う。それを「感情的」と一蹴する。そんな学問なら要らないと思う。ま、一部の人だけであってほしいですが。
(何のか、1つか2つか3つかたくさんなのかはおいといて)「手話」そのものがまだ市民権を得られていないこの時代。もっとやるべきことがあるんじゃないのか。これまで苦労してきた人たちの基盤に乗っかって机上の空論を述べていても社会は動かない。
お仲間が増えれば満足なのかもしれない。でもそれは大きく言えばお仲間でない人が排除されることになる。
自分は家族に(あちらの定義する「手指日本語」を使う)ろう者がいるからこそ許せないし、感情的になる面もある。普通の聞こえる人は「あ、そうなんだ」と受け入れることもあるだろう。そこまで否定はしない。けど、さもそれが全てかのように論じられるのは納得がいかない。
弟をダシにして悪いが、誰か弟と話してどんな手話をしてるか確認して、「あなたの手を使って話す言葉は言語学的に手指日本語ですね」って言ってやってほしい。本人は意味が理解できないだろうけど。弟は弟の手話がある。「手指日本語は手話ではないとは言ってない」⇒詭弁にしか聞こえない。
聞こえる人が多い社会で、多くのろう者は苦労して、工夫して生きてきた。今もそう。口話も使う人も多かっただろう。家庭や教育の影響もある。でも、それで身につけた(仮に不完全な)日本語や手話でも、尊重しなければならない。学術的ではない思いですね。でもいいんです。
一部の「手話言語学」論者は、「(日本手話)言語学」として考え、その対象となる人、文法や背景・文化などは研究するが、それ以外の手話(いわゆる対応手話など)は対象としてない(もっと言えば比較対象くらいとしてしか興味がない)から適当に扱っているように思える。だから納得がいかないんだな。
学問に明るくないのに偉そうに語ってしまいました。
研究対象に敬意を持っていればこんな話にはならないはずなんだが。もしくは当事者が全く知らないところでやるならまだわかる。でもこんな中途半端な状態のものを広めようとしている。そこが言いたいのに。
私、そんなにアホなこと言ってるのかな。
思いとしては「手話やろう者について一般社会の理解を深める」のは同じはずなのに、アプローチが違いすぎて相容れないのが不思議。現場を見ていればやることはわかると思うのは私だけかな。「運動」をしろ、ということではないんだけれども。
文化や言語を扱う研究者の方は研究の対象とするもの、それに所属する・使う人のことを尊重するべきだと思う。
自分の常識を当たり前だと思わないこと、普通とは何か、特に障害分野やマイノリティを扱うなら大事な観点だと思います。
売り言葉に買い言葉的な感じになったのは反省しますが、基本スタンスは変えているつもりないですし、これからも納得できる説明がなければ批判をすることもあるでしょう。前向きな議論はしたいところですが、どうもそうではなくなってしまうのはどうしてなんでしょうか。
そもそもの発端は手指日本語だったり手話がいくつ的なものだったりすると言う一部の人が唱える学説(らしきもの)を、さもそれが社会的に認められた事実かのように初心者に伝えるのはどうか、という問題提起だったつもりで、学問をどうこうの話じゃないんだけど。

というわけで、お目汚し失礼いたしました。ご意見があればいただけるとうれしいです。おやすみなさいませ。

(以上でございます。あくまでも個人の考えで何かに感化されている訳ではありせん)

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