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2018年5月 1日 (火)

手話に関するつぶやき 抜粋まとめ(前編)

ここ最近、Twitterの方で手話や手話通訳について、いろいろお個人の思いをツイートしてきたので、少しまとめてこちらで2回に分けて紹介します。抜粋してますので前後でつじつまが合わないところがありましたら申し訳ないですが、基本的なスタンスは同じです。

(ウメダスのTwitterから)

手話通訳って読みとりも聞き取りも「手がよく動く」「口数が多い」タイプの人と「できるだけまとめる」「聞き溜める」タイプの人がいる。どちらが良し悪しではないが、ワタクシは前者のほう。
見たもの(聞いたもの)を通訳して手話や音声に出すのが比較的早い方らしい。それは翻訳しきれていないからなのかもしれない。
でも思いとしては自分が受け取った情報は少しでも漏らさずに出したいという思い(自分のせいで情報量を減らしたくない)があるからかもしれない。通訳がまとめたりするのってその人の意志が入る。それが言語間翻訳だと言われればそうかも知れないが、同時的にそれができるか。
あと何か知らないけどうっかり予知機能が働きすぎて先に話が終わってしまうと言うこともたまにある。これはいけないこと。結果が合っていればいいが、そうでなければ誤訳となる(自己フォローはするが)。

手話通訳も技術を磨く必要があるのはわかる。ただ、官邸の手話通訳がわからんと批判するだけのろう者(学者さん?)は、事前資料もない状態で、文字起こしされた字幕を話すのと同じスピードで流し見するのでそれ すぐにをろう者にわかりやすい手話にしてみてほしい。どれだけ大変か。
批判をするだけなら簡単。ならどうすれば通訳者の技術があがるのか、養成をどうすればいいのか、具体的な提案がないとただの文句にしか聞こえない。あなたたちはわかりやすい手話ができる手話通訳者をそれなりの人数育てられてるの?と問いたい。
手話通訳者としても常日頃技術を研鑽して知識も集めないといけないのはその通り。ただ、今の待遇ではそれができる環境にある人が少なすぎて、個人の資質・環境に頼りすぎている。それにしてももう少し技術レベルをあげるべきだとは思うが。
官邸だけじゃなく様々な場面でもそう。これからニーズが増えていくからこそ、手話通訳者の養成は大きな課題。ろう者も手話通訳者も団体も真剣に取り組んでいく必要がある。いたるところで通訳者不足が起きているので結構待ったなしの状態。
誤解のないように言っておくと、「わからない」のを我慢しろということではない、ということ。じゃあ、どうすればいいか、考えよう、ということです。

視点が違うのかも知れません。日本語だって方言など違いかありますが、それは「日本語」です。言語学的には違うのかもしれませんが。そもそも対応手話も日本手話も定義が曖昧だと個人的に思ってます。ほとんどのろう者はそのどちら(の正統なもの)にも当てはまらない気がするのです。
言語学的に、とよく使われるのですが、その枕詞さえ付ければ良いとは思えません。日本語の影響を多分に受けてきた地域のろう者が表出する自然な手話を尊重すべきです。
私はほとんど日本語で育ってきたろう者の「○○手話」が、この区別により他者に「それは手話ではない」と否定されることを危惧しています。聞こえない人が手や表情などで話す物は「広義の手話」ですし、それを否定することにより他者の言語を否定することにつながり、それが心配です。
多様性を認めないとは言ってませんよ。多様な物があるからこそ今の区別の仕方が無意味だと思うだけで、納得できる理論が出てくれば話は変わります。でも、一向に出てこない。私がわかろうとしないだけな頑固者だからですかね。
私は言語というか、言葉は”人”に付随するものだと思っています。なので、その人が話す言語は多種多様、特に手話のようなマイノリティなものは特にその特徴が表れると思います。
少し続きます。なぜ一介の手話通訳者でしかない私がこんなにムキになるのかというと、家族の存在です。音声日本語に囲まれ、書記日本語は正しくできず、手話も日本語より、でも自分の言葉として持っています。私はそれを彼の「手話」だと思っています。区別することで除外されるものが出てきます。
そんな家族(弟なんですけど)の手話を「手指日本語」という「手話ではない」レッテルを貼ろうとしたのが許せません。では区別ができるなら、弟の手話は言語学的にどういう手話でしょうか。会ったことがないからわからない、で済まされますか。
分けようとするのなら、多様性を認めた上で、本人たちが納得できる説明をしてからやるべきなのです。弟だけではない、私が今まで出会ってきた人の手話はそれこそ出会った人だけの数があります。日本語もそうですが、日本語は数も多く、ある程度整理されてきました。
弟自身はこんなこと考えていないと思いますが、もし自分の言語が他者によって区別・否定されたら…そういうろう者が世の中にたくさん暮らしている。そう考えるとどうしてもこういう意見になります。学者的にはもう感情論にしか見えないでしょうけど。
希少かどうかは関係なく、例えば日本語だってその中にたくさんある(但し日本の手話より整理はされている)、英語だってそう、と言いたいのです。唐突ではなく、繰り返しになりますが、「広義の手話」です。
じゃあ、区別の材料はどうするのでしょうか。科学的ならだいたい何種類でどんな部類のものがあるか、例がなくても示せるはずです。そういうことを言いたいのです。
隣でしゃべっている若者も日本語、逆側でしゃべっているおじさんも日本語。今日話した何人かのろう者の言葉も違いはあれど手話、弟の(第一か第二か知らんけど)言語も手話、手話ニュースにでている人の言語も手話。みんな違って、みんないいんですよ。でも手話は手話なんですねー。
主張するなら納得できる根拠があるはずなんだけど、「あるものはある」で全然出てこないんだよね。それが不思議。
(後編へ続く←続き物でもないですが汗)

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